Masuk入院中に、私は職場を解雇されたことを知った。ただでさえ祖父のことで会社が揺らいでいるところに、『痴話喧嘩』で醜聞を流したというのが、その理由だった。
ずいぶんといい加減な話だ。まともな会社ではまずありえない。ありえないからこそ、私が今までどんな環境にいたかを思い知らされた。これまで限りなく裏社会に近い場所で働いてきた直感で、私は自分が『切り捨てられる側になった』と悟った。
怜央と私とを天秤にかけて、上層部は怜央を取ったのだ。もともと社会的にグレーな職場だ。まっとうな手当や福利厚生など望むべくもない。
入社した経緯も最悪なら、放り出された経緯も最悪だった。
「何も話したくない。出てって」
「こより……」 「出てって!」病室のベッドで、私はすさんでいた。
自分たちも大変な状況の中、わざわざ見舞いに来てくれた両親も、私はきつい言葉で追い払った。誰も信じられなくなっていたのだ。
味方は捨てた。
収入もない。 居場所さえ失われた。退院すれば、さらなる地獄が待っているだろう。私にとって、1日1日は地獄へのカウントダウンでしかない。
どうせなら、理性も良心も全部かなぐりすてて生きてやろうかと思った。涙もいらない。人として終わってもいい。
あの憎き怜央のように。そんなときだった。
「……久しぶりね、こよりさん」
「楓、先生」私が怪我で入院したという話をどこかから聞きつけた楓先生が、見舞いにやってきたのだ。
けれど、私は素直に喜べなかった。
「遠路はるばる、ご苦労様です。それで、今日はお説教ですか? 先生に叱られるのは8年振りですね。相変わらず教育熱心で尊敬します」
口が勝手に辛辣な皮肉を吐く。地獄で磨いてきた鋭利な言葉が恩師の顔を曇らせるのを見るのは、正直言って快感だった。
同時に、私はさらなる地獄に自ら片足を突っ込んだのだと悟った。自覚するともう何もかもどうでもよくなった。しかし、楓先生の反応は予想と違った。
私を叱るでもなく、蔑むでもなく、侮辱に怒るでもなく、気まずげに黙るでもなく。 ただただ、真っ直ぐに私を見て、告げた。「私は、あなたを誇らしく思うわ」
「何を……」 「あなたの目。つらい経験を重ねてきたのに、私が知るあのころのあなたのまま。あなたは本当に強い子ね、こよりさん」そんなわけない、と声を荒げようとした。
しかし、代わりに出てきたのは大粒の涙だった。楓先生にとって、私はまだ『いいこちゃん』なのだ。
いいこちゃんのままで構わないと言ってくれているのだ。 他の人間なら、「馬鹿にするな」「あなたに何がわかる」と苛立ったことだろう。 けれど、楓先生にずっと支えられてきた私には、先生の言葉がひどく沁みた。 地獄から戻ってこいと言われた気がした。その後も、楓先生は毎日のように見舞いに来た。
最初は素っ気ない態度を取っていた私も、先生と言葉を交わすうちに、次第に気力を取り戻していった。「こよりさん。私はあなたを、もう一度救いたいの」
楓先生は私の手を握りながら、何度もそう言った。
今、私に必要なのは人のぬくもりと力強い言葉だと、先生はわかっていたのだ。 改めて、すごい人だと思った。この人のようになりたい。
この人に恩返しがしたい。退院が近づくにつれ、私は強くそう思うようになった。楓先生に恩返しすること。それが、この先に待っているであろう地獄を乗り越える、私のモチベーションだったのだ。
ところが。
「今日は楓先生、来ないのかな」
退院の日。支度を済ませた私は、病室の扉を振り返った。
真面目な先生は、いつも日時の約束をしてから訪れる。けれど、今日に限っては約束の時間に姿を見せなかったのだ。 私が退院することは伝えてある。前回、面会に来てくれたときには、「もうすぐね。退院したら、一緒にお茶をしましょう」と言っていた。 あの楓先生が、約束をすっぽかすなんて考えられない。「きっと忙しいんだろうな」
私は気持ちを切り替えた。寂しい気持ちはあったが、仕方ない。
楓先生のおかげで、私は他人を信じられるまでに回復した。 回復できたことが、私の自信になっていた。総合受付で手続きを済ませ、私は病院を出た。入院生活で落ちた体力や筋力のせいで、松葉杖の移動は大変だ。
けれど、私の心は晴れやかだった。 人並みの希望を持てるほどに。「太陽、眩しい」
「こより先輩!」正面入口前のロータリーに停めてあった車から、若い女性がひとり、降りてくる。私は笑みを浮かべた。
「ごめんね、
にこやかに笑う彼女の名前は、久我朝菜。
私の2歳下の、可愛い後輩だ。 あのブラック企業の中で、潰れかけていた彼女を手助けして以来、とても懐かれている。怜央に婚約を破棄され、精神的にどん底だったときも、朝菜は私を見捨てなかった。私は彼女にも冷たくしてしまったのに。
だから、私は朝菜にも感謝している。朝菜は半年前に会社を退職し、フリーのクリエイターとして再出発した。ライターだけでなく、イラストレーターもこなすマルチさが強みだ。順調に実績を伸ばしているらしい。素晴らしいことだ。
今日は私が退院すると聞いて、朝菜は実家までの送迎役を買って出てくれたのだ。
「とうとう車を買ったのね。可愛らしい見た目だわ」
「ぶつけないか毎日心配なんですよー」車中で朝菜と他愛ない雑談をしていた私は、ふと尋ねた。
「ねえ、朝菜。楓先生が今日は来なかったんだけど、何か知ってる?」
「先生が? 珍しいですね」 「うん。だから気になって。何事もないといいんだけど」 「楓先生、スマホも持ってないんでしたっけ? 今どきいるんですね、そんな人。連絡が取れないと大変じゃないですか?」 「昔気質な人なのよ」私は苦笑した。
もうすぐ実家が見えてくる。自然と表情が引き締まった私の横顔をちらりと見遣り、朝菜が少し言いづらそうに口を開いた。
「先輩。これから、どうされるんですか?」
「全部、失っちゃったからね。ゼロからやり直すつもり。落ち着いたら実家も出て、ひとりで暮らそうと思ってる」 「だったら、私がいいところを紹介しますよ。こう見えて、ちょっとした人脈があるんです」 「ありがとう。でも大丈夫。ひとりでやれるわ」 「ですが……」 「あのブラック企業で働いてたときのことを思えば、何だってやれるわよ。それこそ、水商売だってね」 「え!?」 「実はちょっと興味があるの。真面目に生きているけど苦労してきた人の話を聞いたり、手助けしたりできるんじゃないかって」 「なるほど、すごく先輩らしい理由です。でも先輩だと、正直難しいんじゃないですかね。水商売」 「あら、どうして?」 「だって先輩、女子高生にしか見えないですもん。夜の店で働いてたら補導されますよ。肌つやとか髪質とか全然変わってないし。超羨ましい」 「……それは子どもっぽいと言いたいわけね?」 「あ、すみません」「怖ー」と肩をすくめ、朝菜は黙った。
どうやら私は怒ると怖いらしい。見た目女子高生が突然やり手の社長みたいな威厳を放つので、ギャップがエグいのだそうだ。小さく息を吐いた私は、窓の外を見た。
「とりあえず、楓先生に連絡を取らないと。無事退院できました、先生のおかげです――って」
私はようやく、地獄から抜け出せたのだ。
この喜びを、早く楓先生と共有したかった。しかし――。
退院から一週間が過ぎても、楓先生と連絡が取れなかった。
私もまた、生活再建のために慌ただしい日々を送り、楓先生と会えない時間が増えていった。やがて半年が経ち、1年が経ち――。
2年目が終わろうとしたとき、私のもとにふたつの情報が届いた。ひとつは、私立黎明館学園の中等部が廃止され、楓先生が高等部のお飾り校長となったこと。
もうひとつは、中等部廃止を裏で主導したスポンサーが、私の元婚約者、一条怜央であったこと。(怜央……私の人生だけじゃなくて、楓先生の人生まで狂わせようとしているの)
許せないと思った。
だが、私は怜央の手腕も知っている。 彼がかかわっているのなら、外部から何を言おうが効果は薄いだろう。私は、ある決断を下した。
外が駄目なら、内からだ。
もう一度高校生をやり直して、楓先生を救う。
そして、怜央に復讐する。『いいこは怒らせると怖い』――。
そのことを、思い知らせてやるのだ。
「お前に何がわかるってんだよ。え? 適当言ってんじゃねえぞコラ」 「あら、星岡君。こんにちは」 恫喝にも動じることなく私が挨拶すると、大河はさらに不機嫌そうに顔を歪めた。 本物の裏社会の人間、つまり本当にヤバい人間は、こんな物言いはしない。私はそういう人たちとも対面してきた。 (比べては可哀想よね。こんなに可愛い顔をしているのに) 顎に手を添えて、フッと鼻で笑う。 元が小柄で童顔なせいか、今の大河はおもちゃを取られて悔しがっている小学生にしか見えない。 だが、彼が私の言葉に反応してきたのは、大事なシグナルだった。 私は余裕を保ったままサラダを片付けると、イライラした様子の大河を振り返った。 「ずっと聞き耳たててたなんて、一緒に食べたいなら声をかけてくれればよかったのに」 そんな考えなどおくびにも出さず、私は微笑みを浮かべて誘った。周囲のクラスメイトたちがぎょっとする中、大河が少し赤くなって叫んだ。 「そんなんじゃねえよ!」 「あらあら。じゃあどうして、そんなに怒っているのかしらね」 私はさりげなく、大河の手からチラシを奪い返した。その方が、彼の苛立ちを誘えると思ったから。 「ん? あ!? おま、いつの間に」 「男がそんな細かいことにいちいち目くじらを立てないの」 目くじら立てるように、私は言う。 「もしかして、お知り合いがいるの? この会社に」 「そうだよ!」 「それは申し訳なかったわ。ずいぶん親しくしているのね」 「ここの会社は、親父が目を掛けてやってるんだ。お前が変な噂を立てて、会社が潰れたらどうしてくれる」 「まさか。たかが女子生徒のひと言で潰れるほどやわじゃないでしょう」 「俺が気に入らないって言ってんだよ」 「志が高いのね。素敵なことだわ」 「ふん。あそこが潰れちゃ、こっちだって大損だし、将来に傷が付くだろ」 おそらく、大河は気づいていない。 私がそれとなく彼をおだて、会話を誘導していることを。 (なるほど。すでにこの子は、親の系列企業と関係を持っているわけか。本物か、それともただ担がれているだけか。私との会話を怪しんでいないところを見ると、後者の可能性が高そうだけど) 少しだけ、踏み込んでみよう。 「夢があるのは
――昼休憩。 「ねえ、井伊さん。一緒にお昼食べない? 食堂行こうよ、食堂。超キレイだから!」 私はクラスメイトたちから昼食を誘われた。 女子3人、男子2人。なかなかの大所帯だ。 いつもの私はお弁当だが、この日は朝、体調が悪かったため、弁当を作ってなかった。せっかくなら食堂を利用しようと思っていたところだったので、クラスメイトの申し出は渡りに船である。 「ええ。よろこんで」 「やった。じゃあ行こう!」 背中を押されて教室を出る。男子の他愛ない話に女子が笑いながらツッコむという、微笑ましい日常の風景だ。 「そういえば、いつも井伊さんはお弁当だよね。今日はナシ?」 「曇りの日は気分が乗らなくて、今日は作らなかったの」 「へぇ、意外。井伊さんなら、家でもきちっとしてそうなのに」 「あら。私のプライベートが知りたい?」 目を細めて問いかけると、話しかけてきた女子生徒だけでなく、周りのクラスメイトたちも赤面していた。 「井伊さんって、本当大人っぽいよね。なんで?」 「秘密です」 「えー。超知りたい。井伊さんみたいに大人っぽくなりたい。てか、あたしも早く大人になりたいぃー」 「それはもったいないわよ。本当に」 「井伊さん?」 「気にしないで」 私は誤魔化した。 食堂への道すがら、私は周囲の視線を感じた。 私が入学してまだ1ヶ月も経っていないが、それなりに注目される存在になったらしい。私は胸を張って歩いた。 食堂の入口が見えてきた。かなり人気らしく、列ができている。 クラスメイトのひとりがぼやいた。 「ヤバ。外、雨降ってんじゃん。どうりで食堂が混んでるはずだよー」 「男子、席確保してきて。ほらダッシュ」 「うへぇ、マジかよ。人使いが荒い女どもめ」 「食堂は席取り禁止のルールよ。男の子たちに上級生から白い目を向けられちゃ、可哀想でしょ」 「井伊さんマジ女神」 「並ぶのめんどいー」 「文句言わずに並びましょ。私、食堂に入るのは初めてだから、楽しみだわ」 「じゃあ、あたしが注文の仕方教えてあげる」 「ありがとう。頼りにしてる」 実際は龍慈君と放課後にお茶したことがあるので「初めて利用」は嘘だが、クラスメイトたちに合わせた。 (
「とりあえず、お前が井伊サンについて調べたことは、逐一俺に報告しろ。本当に井伊サンのためになる情報か、それともまったくのガセか。俺が判定してやる」 「わかりました! 久我先輩、私のため、井伊さんのため、どうかご協力をお願いします」 「言っておくが、デマを掴んできた日には、ただじゃおかないからな。覚悟しておけ」 「はい! 私、先輩に信頼してもらえるよう頑張りますね!」 「……なあお前、周りから『どっかズレてる』とか言われないか?」 「なんでわかるんですか」 二度目のため息をついた。 (大丈夫かよ、井伊サン。こんなわけわかんねえ女を気にかけてさ) 「あ、それでは久我先輩。お近づきの印に、さっそくこちらを渡しておきますね」 「は?」 「教科担当の先生方の性格チャートと、現時点での井伊さんへの評価をメモったものです。将来的に協力してくれそうな先生にはチェックを付けてますので、参考になれば。チャートは私がこれまでウォッチしてきたものを流用しました。さすがにまだ絶対的に情報量が少ないですが、とりあえず第一報ということで」 差し出されたメモ帳を、俺は胡散臭そうに睨む。 「俺にこれを信じろと?」 「信じてもらうには、まずは自己開示からだと教わりました」 「新聞部の伝統か」 よれたメモ帳を受け取り、パラパラとめくる。 そこにびっしりと刻まれた情報量に、俺は目を瞠った。 特に、伊集院のところに△印が付いているのを見て、内心で唸る。伊集院は井伊サンの担任。この前の講演会のとき、井伊サンと微妙な空気になっていた教師だ。 △印というのが、また絶妙だった。この見立ては――たぶん、正しい。 「お前、いつもこんなことしてんの?」 「新聞部の先輩からの教えを守っていたら、癖みたいになっちゃって。記憶力自慢なのも役に立ってます」 えへへと後ろ頭をかく後輩女を、俺は末恐ろしく感じた。 同時に、メラメラと対抗心が湧き上がってくる。 「井伊サンの観察力では負けねえ。せいぜい、俺を唸らせる成果を出してみろ、静森」 「わかりました! お任せください、久我先輩!」 「井伊サンの信頼は渡さねえぞ。あの人の一番近くにいるのは俺だからな」 「その意気です、先輩!」 まったく怯みやしない。
(俺は納得いかない) 授業を受けている間、俺は悶々としていた。原因はもちろん、今朝の静森のことである。 井伊サンの味方が増えることを否定しているわけじゃない。むしろいいことだ。 だが、いくら何でも特別扱いしすぎじゃないか? 静森の境遇なんて、言っては悪いがよくあることじゃないか。勢いのある部に押され、伝統を守ることに固執して対抗しきれず、交渉も上手くいかず、廃部の危機に陥った。 よくあることだ。 確かに、井伊サンが肩入れしたくなる人物像なのは、頭ではわかる。真面目で純粋、それなりにスキルもありそうだ。 だが、静森の境遇を特別視する理由にはならないんじゃないか。 ましてや、俺の意見を差し置いて、わざわざ静森専用の試験を課すなんて。 何だよ、井伊サンのスキャンダルを暴くって。んで何だよ、井伊サンのいいところを探して、その中で駄目なところがあったら報告するって。 井伊サンは現実主義者だ。最近は特にそう。 その井伊サンが、自分自身をネタにするなんて不合理だ。しかも、静森が日和った妥協案を提示したら、あっさりとそれを受け入れた。 俺にはそんなの言ったことないくせに。 いったい何を考えているのか……。 いや、井伊サンの考えていることは常に一貫している。 真面目に生きる者が損をする、そんな理不尽な世の中を変える。 井伊サンはそのために生きている。 静森のことだって、桜庭校長のことだって、その信念に沿っての行動だろう。 もしかして、井伊サンは静森と校長が似ていると思ったのか? だからあんなに肩入れするのか? 桜庭校長、姉貴、それからクソムカつくあの男、一条怜央。彼らが井伊サンにとって特別な人間なのは、まだいい。彼らは大人だから。 だが、高校生ってくくりでは、俺が唯一無二の存在じゃないのか。 ……何でここまでイラつくのか、実のところ自分でもわかっている。 悔しいのだ。 俺という特別な人間がいながら、井伊サンが他の奴に興味を持ったことが、しかもそれが同世代の女子だったことが、どうしようもなく悔しいのだ。理屈じゃなく、感情で。 静森が仮に男だったら、電車内でつかみかかっていたかもしれない。 そんなガキくささが自分で理解できるからこそ、苛
朝の通勤・通学ラッシュの時間帯、外の湿気が電車内にもかすかに入り込んでいる。 静森さんの首筋にうっすらと汗が滲んでいるのは、暑さだけが理由ではないだろう。 私から課題を突きつけられた彼女は、大いに戸惑っていた。 「な、何で井伊さん自身を……」 「嫌ですか」 「嫌というか、完全に予想外だったというか。そ、そもそも、こんな人がたくさんいる場所で、スキャンダルを調べろなんて大胆すぎる発言ですよ」 「見て」 視線を右に向ける。 龍慈君の姿に沸き立った女子生徒数人が、浮かれた声で盛り上がっていた。他の一般客は、彼女たちのよく通る笑い声に眉をひそめている。 「不快なものほど意識が向く。堂々としていれば、私たちの会話を気にする人はいませんよ。ましてや、一言一句記憶している人は皆無でしょう。静森先輩は違うかもしれませんが」 くすりと笑う。 私は再び、彼女の耳元に口を寄せた。 「新聞部の伝統、そしてあなたを閉め出したネットメディア部と、同じ事をする必要はないですよ」 「え?」 「むしろあなたには、彼らと違うところを見せてほしいのです。どんな状況であっても、どんな課題があっても、他人を蹴落とすなんて安易な真似に走らず、信念を貫き、真偽を追う姿を」 真面目に生きる者が損をする。その悔しさを知っている彼女だからこそ、理不尽な状況を乗り越えてほしい。乗り越える強さを身につけてほしい。 すると、静森さんは私をまっすぐに見た。いい目だと思った。 「スキャンダル収集、やっぱり私は抵抗があります」 (真面目な彼女なら、そう言うでしょうね。まあ、仕方ないでしょう) 私は内心で肩をすくめた。さすがに、いきなりは酷だったようだ。 まだ、彼女を巻き込むのは早いということか。 「そうよね。ごめんなさい、この話は忘れて――」 「でも!」 しかし、静森さんは意を決して言う。 「代わりに私、井伊さんのいいところを探して、その中で駄目なところがあったら報告します。それで、どうでしょうか!?」 ――甘い妥協案だと思った。 しかし、私は興味を持った。彼女の提案そのものより、彼女の姿勢に。 正直言うと、静森さんはこちらが押せば簡単に折れると思っていた。真面目な反面
「からかうのはやめていただけますか? 静森先輩」 乱れた髪をさりげなく整えながら、私は言った。少しだけ身体を傾け、警戒していることを示す。 すると、静森さんは握り拳を作って力説した。 「からかってなんていません。私、本当にすごいと思っているんです。26歳になって、もう一度高校で学び直そうなんて、並大抵の覚悟じゃできませんよ!」 静森さんが私の実年齢を知っているのは本当だった。 私はむしろ、彼女の言葉で警戒心を緩めた。 (もしかしたら、入学式の痴漢騒ぎも仕込みかと思ったけれど……どうやら思い違いのようね。怜央なら、こんなあっさり情報開示するような子をスパイにしたてようとは思わないもの) 彼は優秀だ。人の優劣を見抜く目を持っている。そして、とても冷酷だ。 スパイを丁寧に育てるなんて発想はない。 ましてや、口の軽い人間の起用などもってのほかだ。 静森さんの話は止まらない。 「普通と違う人生を堂々と歩む、その姿に憧れます。確かに学年では私の方が上級生ですが、井伊さんにため口で話すなんてできませんよ。私、痴漢から助けていただいた時から、井伊さんのファンなんです! だから、久我先輩も同じ井伊さんのファンなんだと思って、それで『同志!』と」 「まあ、それならわかる」 なぜか龍慈君がしみじみとうなずいた。 「だがな、静森。俺としては、井伊サンを守ると決めた以上、下手な人間を味方に引き入れるわけにはいかないんだ。俺たちはお前のことを知らなすぎる」 「龍慈君、あまり彼女に強く当たるものではないわ。ただ、私や龍慈君が彼女のことをよく知らないというのは、その通りね」 私は静森さんに向き直った。 「先輩。あなたのことを教えていただけますか。次の電車が来るまで、もう少し時間がありますから。まず、どうやって私の年齢を知ったのですか?」 「新聞部として、パソコンが苦手な顧問の先生に頼まれてメール整理をしているときです。偶然、イントラネットに井伊さんの扱いについて注意喚起するメールが届いたのを見てしまったんです」 「おいおい。生徒にメール整理って、セキュリティがガバガバじゃねえか。大丈夫なのか、その先生」 「あはは……ですよね。すぐに閉じたんですが、私、記憶力には自信があって。井伊さんの情報が頭に
コンコン。 応接間の扉がノックされ、僕の心臓が飛び上がった。「一条先生、そろそろ講演のお時間です」 教頭先生が、うやうやしい口調で一条さんを呼びに来たのだ。 それまで険しい表情をしていた一条さんが、ころりと表情を変えた。瞬きする間もないほど一瞬だった。「もうそんな時間ですか。つい長話に興じてしまいました」 そう言って、僕を見る。再び僕はどきりとした。「伊集院先生とは年齢が近いせいか、共感するところが多くありました。我が校に、このように若く優秀な教師がいらっしゃることを、誇らしく思いますよ」 僕は口元が引き攣りそうになった。「恐縮です」と答え、何とか愛想笑いを返す。(それは
龍慈君の目が、強く何かを訴えかけている。 少年ではなく、男性の息づかいを感じる。 私はきゅっと唇を噛みしめた。 駄目。 それは駄目よ、龍慈君。 あなたは、私にとって弟なの。 近づいてくる龍慈君の顔。男の子にしてはびっくりするほど睫が綺麗。肌もどうしてこんなにきめ細かいのか。 力強いのに肉感的な唇が迫ってくる。 あと10センチ。 私は右手の人差し指を、龍慈君の唇に当てた。久しく感じていなかったぞくりとした震えを、胸の奥に押し込める。 龍慈君が泣きそうな顔になった。「井伊サン、俺……」「私は、もう恋愛はしないと決めてるの」 私の言葉に、龍慈君が目を大きく見開く。 ご
「失礼します。伊集院です」「どうぞ、お入りください」 真っ先に「色気のある声だな」と思ってしまったのは、僕が緊張しているからだろうか。 教頭先生に呼び出された僕は、来賓対応用の応接室の扉に手をかけた。 勤務も3年目となると、来賓の格が何となくわかるようになってくる。 教頭先生が伝言役。 校内でも校長室以上に内装にこだわった応接室。 このふたつで、室内にいるのがただの保護者でないことはほぼ確実だった。 そして今、威厳と冷たさと色気を含んだ声を聞いて、僕は部屋の中で待つ人物
――私が黎明館学園に入学してから、数日が経った。 怜央への対抗心を胸に秘めつつ、私は真面目に授業をこなした。 クラスメイトたちの多くは、まだ緊張しているらしい。真新しい教科書を真剣な顔で見つめている。この独特な空気が、私には心地よかった。 しかし、全員が全員真面目に授業を受けているというわけではなくて――。「ぎゃはは! ダッセェ!」 英語の授業直前、教室内に耳障りな笑い声が響いた。 プリントを持ったクラスメイトのひとりが、うっかりつまずいたのを見て、ある男子生徒が笑いものにしたのだ。







