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第3話 いいこは怒らせると怖い

last update تاريخ النشر: 2026-04-27 21:31:56

 私は入院した。

 左膝は手術が必要なほどの怪我を負い、消えない痕が残った。術後は心身の痛みで一睡もできなかった。

 入院中に、私は職場を解雇されたことを知った。ただでさえ祖父のことで会社が揺らいでいるところに、『痴話喧嘩』で醜聞を流したというのが、その理由だった。

 ずいぶんといい加減な話だ。まともな会社ではまずありえない。ありえないからこそ、私が今までどんな環境にいたかを思い知らされた。

 これまで限りなく裏社会に近い場所で働いてきた直感で、私は自分が『切り捨てられる側になった』と悟った。

 怜央と私とを天秤にかけて、上層部は怜央を取ったのだ。

 もともと社会的にグレーな職場だ。まっとうな手当や福利厚生など望むべくもない。

 入社した経緯も最悪なら、放り出された経緯も最悪だった。

「何も話したくない。出てって」

「こより……」

「出てって!」

 病室のベッドで、私はすさんでいた。

 自分たちも大変な状況の中、わざわざ見舞いに来てくれた両親も、私はきつい言葉で追い払った。

 誰も信じられなくなっていたのだ。

 味方は捨てた。

 収入もない。

 居場所さえ失われた。

 退院すれば、さらなる地獄が待っているだろう。私にとって、1日1日は地獄へのカウントダウンでしかない。

 どうせなら、理性も良心も全部かなぐりすてて生きてやろうかと思った。涙もいらない。人として終わってもいい。

 あの憎き怜央のように。

 そんなときだった。

「……久しぶりね、こよりさん」

「楓、先生」

 私が怪我で入院したという話をどこかから聞きつけた楓先生が、見舞いにやってきたのだ。

 桜庭さくらば楓先生。私が通っていた私立黎明館れいめいかん学園で、中学・高校と担任だった女性だ。

 真面目一辺倒で孤立しがちだった私に、いつも寄り添ってくれた恩師であった。

 けれど、私は素直に喜べなかった。

「遠路はるばる、ご苦労様です。それで、今日はお説教ですか? 先生に叱られるのは8年振りですね。相変わらず教育熱心で尊敬します」

 口が勝手に辛辣な皮肉を吐く。地獄で磨いてきた鋭利な言葉が恩師の顔を曇らせるのを見るのは、正直言って快感だった。

 同時に、私はさらなる地獄に自ら片足を突っ込んだのだと悟った。自覚するともう何もかもどうでもよくなった。

 しかし、楓先生の反応は予想と違った。

 私を叱るでもなく、蔑むでもなく、侮辱に怒るでもなく、気まずげに黙るでもなく。

 ただただ、真っ直ぐに私を見て、告げた。

「私は、あなたを誇らしく思うわ」

「何を……」

「あなたの目。つらい経験を重ねてきたのに、私が知るあのころのあなたのまま。あなたは本当に強い子ね、こよりさん」

 そんなわけない、と声を荒げようとした。

 しかし、代わりに出てきたのは大粒の涙だった。

 楓先生にとって、私はまだ『いいこちゃん』なのだ。

 いいこちゃんのままで構わないと言ってくれているのだ。

 他の人間なら、「馬鹿にするな」「あなたに何がわかる」と苛立ったことだろう。

 けれど、楓先生にずっと支えられてきた私には、先生の言葉がひどく沁みた。

 地獄から戻ってこいと言われた気がした。

 その後も、楓先生は毎日のように見舞いに来た。

 最初は素っ気ない態度を取っていた私も、先生と言葉を交わすうちに、次第に気力を取り戻していった。

「こよりさん。私はあなたを、もう一度救いたいの」

 楓先生は私の手を握りながら、何度もそう言った。

 今、私に必要なのは人のぬくもりと力強い言葉だと、先生はわかっていたのだ。

 改めて、すごい人だと思った。

 この人のようになりたい。

 この人に恩返しがしたい。

 退院が近づくにつれ、私は強くそう思うようになった。楓先生に恩返しすること。それが、この先に待っているであろう地獄を乗り越える、私のモチベーションだったのだ。

 ところが。

「今日は楓先生、来ないのかな」

 退院の日。支度を済ませた私は、病室の扉を振り返った。

 真面目な先生は、いつも日時の約束をしてから訪れる。けれど、今日に限っては約束の時間に姿を見せなかったのだ。

 私が退院することは伝えてある。前回、面会に来てくれたときには、「もうすぐね。退院したら、一緒にお茶をしましょう」と言っていた。

 あの楓先生が、約束をすっぽかすなんて考えられない。

「きっと忙しいんだろうな」

 私は気持ちを切り替えた。寂しい気持ちはあったが、仕方ない。

 楓先生のおかげで、私は他人を信じられるまでに回復した。

 回復できたことが、私の自信になっていた。

 総合受付で手続きを済ませ、私は病院を出た。入院生活で落ちた体力や筋力のせいで、松葉杖の移動は大変だ。

 けれど、私の心は晴れやかだった。

 人並みの希望を持てるほどに。

「太陽、眩しい」

「こより先輩!」

 正面入口前のロータリーに停めてあった車から、若い女性がひとり、降りてくる。私は笑みを浮かべた。

「ごめんね、朝菜あさな。迷惑かけて」

「とんでもない! 先輩のためなら、この久我くが朝菜、どこへだって飛んでいきますよ!」

 にこやかに笑う彼女の名前は、久我朝菜。

 私の2歳下の、可愛い後輩だ。

 あのブラック企業の中で、潰れかけていた彼女を手助けして以来、とても懐かれている。

 怜央に婚約を破棄され、精神的にどん底だったときも、朝菜は私を見捨てなかった。私は彼女にも冷たくしてしまったのに。

 だから、私は朝菜にも感謝している。

 朝菜は半年前に会社を退職し、フリーのクリエイターとして再出発した。ライターだけでなく、イラストレーターもこなすマルチさが強みだ。順調に実績を伸ばしているらしい。素晴らしいことだ。

 今日は私が退院すると聞いて、朝菜は実家までの送迎役を買って出てくれたのだ。

「とうとう車を買ったのね。可愛らしい見た目だわ」

「ぶつけないか毎日心配なんですよー」

 車中で朝菜と他愛ない雑談をしていた私は、ふと尋ねた。

「ねえ、朝菜。楓先生が今日は来なかったんだけど、何か知ってる?」

「先生が? 珍しいですね」

「うん。だから気になって。何事もないといいんだけど」

「楓先生、スマホも持ってないんでしたっけ? 今どきいるんですね、そんな人。連絡が取れないと大変じゃないですか?」

「昔気質な人なのよ」

 私は苦笑した。

 もうすぐ実家が見えてくる。自然と表情が引き締まった私の横顔をちらりと見遣り、朝菜が少し言いづらそうに口を開いた。

「先輩。これから、どうされるんですか?」

「全部、失っちゃったからね。ゼロからやり直すつもり。落ち着いたら実家も出て、ひとりで暮らそうと思ってる」

「だったら、私がいいところを紹介しますよ。こう見えて、ちょっとした人脈があるんです」

「ありがとう。でも大丈夫。ひとりでやれるわ」

「ですが……」

「あのブラック企業で働いてたときのことを思えば、何だってやれるわよ。それこそ、水商売だってね」

「え!?」

「実はちょっと興味があるの。真面目に生きているけど苦労してきた人の話を聞いたり、手助けしたりできるんじゃないかって」

「なるほど、すごく先輩らしい理由です。でも先輩だと、正直難しいんじゃないですかね。水商売」

「あら、どうして?」

「だって先輩、女子高生にしか見えないですもん。夜の店で働いてたら補導されますよ。肌つやとか髪質とか全然変わってないし。超羨ましい」

「……それは子どもっぽいと言いたいわけね?」

「あ、すみません」

「怖ー」と肩をすくめ、朝菜は黙った。

 どうやら私は怒ると怖いらしい。見た目女子高生が突然やり手の社長みたいな威厳を放つので、ギャップがエグいのだそうだ。

 小さく息を吐いた私は、窓の外を見た。

「とりあえず、楓先生に連絡を取らないと。無事退院できました、先生のおかげです――って」

 私はようやく、地獄から抜け出せたのだ。

 この喜びを、早く楓先生と共有したかった。

 しかし――。

 退院から一週間が過ぎても、楓先生と連絡が取れなかった。

 私もまた、生活再建のために慌ただしい日々を送り、楓先生と会えない時間が増えていった。

 やがて半年が経ち、1年が経ち――。

 2年目が終わろうとしたとき、私のもとにふたつの情報が届いた。

 ひとつは、私立黎明館学園の中等部が廃止され、楓先生が高等部のお飾り校長となったこと。

 もうひとつは、中等部廃止を裏で主導したスポンサーが、私の元婚約者、一条怜央であったこと。

(怜央……私の人生だけじゃなくて、楓先生の人生まで狂わせようとしているの)

 許せないと思った。

 だが、私は怜央の手腕も知っている。

 彼がかかわっているのなら、外部から何を言おうが効果は薄いだろう。

 私は、ある決断を下した。

 外が駄目なら、内からだ。

 もう一度高校生をやり直して、楓先生を救う。

 そして、怜央に復讐する。

『いいこは怒らせると怖い』――。

 そのことを、思い知らせてやるのだ。

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